マナビ塾:8月29日(金)「江戸の食と安全を守った水運」について学びました。

超大型台風10号の進行が予想以上に遅く、東京での強い風雨の心配がないと判断されたことから、予定通り8月29日(木)、當麻多才治様を講師にお迎えして「江戸の食と安全を守った水運」のテーマで受講者21名に対してご講演頂きました。

當麻講師は、日本生命では国際証券部門を中心にご活躍され、ご退職後は流山市に在住されている関係で流山SGGクラブの会員として来日外国人への善意通訳もされていらっしゃるとのことでした。

その中で、イギリス人で日本の国土省にあたる役所OBであるT氏が、「利根川の治水関係施設で“千葉県立関宿(セキヤド)城博物館”と“首都圏外郭放水路の調圧水槽”を見学したい。」との依頼があり、その事前準備で利根川の治水の歴史から調査したそうです。そのことがキッカケとなって、利根川・江戸川流域の放水路を全て歩き、更に地元の水害体験者や専門家の意見をヒアリングし、それらの調査結果をもとにして、昨年9月に『利根川の放水路を歩く~未完の東遷完成への提言』(たけしま出版)という本を共同執筆出版されたとのことでした。

なお、共同執筆者の青木更吉氏(1933年生まれ)は流山市歴史文化研究会で知り合った方で既に千葉県の牧研究の第一人者で、利根川については『利根川は東京湾へ戻りたがる』(さきたま出版会)を執筆された方とのことです。

今回の講演では、利根川の治水だけでなく大都市江戸を維持発展させるための食の確保に繋がる運河についてもお話し頂けるとのことでした。

利根川は全長322Kmで信濃川に続く第2の河川ですが、その水源は遠く群馬県大水上(オオミナカミ)山にあり、ニッセイ同期の髙橋利行氏(昨年11月のマナビ塾「修験道」の講師)とご一緒に登られたとのことで、「利根川水源の碑」(標高1834m)のスライド写真と危険な雪渓の中で水源から汲み取った小瓶に入った水を見せて下さいました。冒頭から中々の演出です。

以下、講演の概要を記述させて頂きます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【1】江戸の飲料水と食の確保

まずは、水です。1590年に家康が8000人の家来を連れて入府した江戸は、日比谷は入江だったため井戸水は塩水で飲めなかったことから、江戸のインフラ整備としてまずは飲める水の確保するために井の頭池を水源として小石川の関口までの約22Kmを繋ぐ神田上水を作りました。

その後、人口が増える中で1654年には多摩川の水を羽村から四谷の大木戸までの武蔵台地の尾根沿いに、約43Kmを繋ぐ玉川上水を作っていますが、その高低差はわずか92.3mしかないので緩やかに流すのはかなりの難工事であったと思われます。

次は塩です。当時の江戸湾は浅瀬が多く船が座礁しやすく、塩田のあった千葉県の行徳から江戸に運ぶのに苦労していたことから、小名木川(隅田川と旧中川を結ぶ)と新川(旧江戸川と中川を結ぶ)と言う運河を掘削し、既に掘削されていた道三堀(隅田川と江戸城を結ぶ)と繋げました。

なお、この運河は、塩の運搬だけでなく、1629年には後述の利根川の東遷工事で併せて拡張されることにより、北関東や東北の野菜や米も運ぶ大航路となりました。

【2】利根川の東遷

1590年に家康が江戸に入った当時は、利根川と荒川は越谷(埼玉付近)で合流し、江戸湾に注いでいたことから、度重なる洪水によって、現在の埼玉県東部から東京都東部地帯は大湿地帯でした。

そこで利根川(古利根川)をせき止めて、利根川の中下流の流路を瀬替えして、銚子沖に東側に大きく変えることにしました。洪水を江戸から遠ざけ、埼玉平野の新田開発をおこない、かつ、利根川を江戸への物資を運ぶ水運とすることが目的でした。これを「利根川の東遷」と呼んでいます。

その中心は、1621年の利根川と渡良瀬川を繋ぐ「新川通り」の開削と1621年、1634年と北総台地の分水界を掘削し、1654年に通水した利根川と常陸川を繋ぐ「赤堀川」の開削でした。

また、利根川の分流となる逆(サカサ)川・江戸川の開削により、江戸湾に繋がる流路も出来ました。その分岐点が関宿(セキヤド)でした。このことで銚子から利根川を遡行し、関宿で江戸川を下る水運ルートが出来たことが江戸の発展に大きく貢献しました。

一方、荒川の流路を西側にある入間川に熊谷市久下(クゲ)で流れ込ませる開削工事を同時に行い、最終的に隅田川として江戸湾に流すようにしました。これを「荒川の西遷」と呼んでいます。

但し、上流域の米・木材等が江戸に届くようになった反面、江戸の洪水リスクは高まってしまいました。

(注)1910年の関東大水害をきっかけに17年かけて1930年に人工河川の荒川放水路(今の荒川)を作ることで荒川と隅田川を分離し、ようやく都心の水害リスクを減らせたました。

【3】江戸時代中後期の利根川の東遷の状況

利根川の上流から運ばれる多量の土砂が下流で堆積し、村々が度々水害を受けるようになり、その対策として印旛沼から江戸湾への流路開削工事と干拓(新田開発)工事が江戸時代に3回試みられましたがいずれも失敗しました。

(注)1969年(昭和44年)に水資源公団により“印旛放水路”として完成させ、印旛沼の内水は東京湾に流し、新田開発は進みましたが、「利根川の洪水を印旛沼経由で東京湾に流す」という課題は残りました。

1783年には浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流で川床が上昇し、下流の水害頻度は増しました。中条堤(熊谷)を中心とし調節池と幸手市の権現堂堤は利根川、江戸川下流域を守る上で大きな役割を果たしていましたが、関宿で利根川と江戸川にどれだけ流すかは、地域の対立の種でした。

【4】明治以降の利根川の東遷の状況

1877年(明治10年)頃から渡良瀬川の足尾銅山の排水問題が起こり、人口密集地である東京に被害拡大を避けるため関宿で江戸川への流入を制限し、利根川に流す方針が固まって来ました。これをもって「利根川の東遷」の一つの完成と考えることも出来ると思います。

なお、銚子から遡行し関宿から江戸川を下る水運ルートの一部に浅瀬があった為、大型船が通航出来ず、小型船に積み替えが必要だったことから、利根川と江戸川をショートカットする運河の開削工事が始り1890年(明治23年)に“利根運河”が通水しました。

但し、銚子―東京間の鉄路が開通したことで需要が減少したことと、頻繁に発生する洪水のため、運河の土手の修理費がかさみ、運河株式会社の経営が成り立たなくなり、1941年に国に買収され、運航は廃止され、運河は放水路の役目を果たしました。

(注)現在は流山市立運河水辺公園となり“眺望の丘”と言う素晴らしい観光スポットがあります。

【5】昭和以降の利根川の東遷の状況

前述の通り洪水発生時は、利根川(銚子への本流ルート)に多めに流し、江戸川(東京湾ルート)への分流は少なくすると言う考え方が基本となっていました。

このような中で1947年(昭和22年)、 “カスリーン台風”は利根川流域を襲い、過去に例を見ない記録的豪雨により埼玉県の堤防をはじめ多くの堤防が決壊したことにより、1都5県で多数の死者・家屋倒壊をもたらしました。この結果、上流のダム建設が促進され、中・下流域に田中・菅生・稲戸井調整池の整備やスーパー堤防の建設等の対策がとられることになりました。

【6】未完の東遷・完成への提言

近年の台風では、気候変動の影響か雨量の多さから利根川への流入量は令和1年度台風19号・東日本豪雨のように計画流量を上回り、特に利根川下流域の安全度向上対策は安心できる状態ではないと痛感しています。そこで以下の三つの提案を著書に記述しています。

 <提案1> 新利根川を「利根川放水路」として復活させる。

・江戸時代に利根川の水位を下げるために“新利根川”が掘削されたが、水深が浅く水運に向かず、印旛沼の水害をもたらすことになったことから工事が途中で終わり、小貝川に繋げて灌漑用水路になっているのを、再度「利根川放水路」として拡張整備することで小貝川へ洪水時の水を逃がす。

<提案2> 地下トンネル方式の「利根川放水路」を設ける。

・現在、国道16号線直下50mにある「首都圏外郭放水路」と同じ発想で、16号線柏市~八千代市の地下に「利根川放水路」を設ける。利根川の水を、東京湾に流すのが目的です。

<提案3> 霞が浦~北浦~鹿島灘を連携した「利根川放水路」を設ける。

・利根川を佐原から霞ケ浦~北浦~鹿島灘に繋ぐ「放水路」を設ける。

しかしながら、国土交通省関東地方整備局管内では、鬼怒川緊急対策が終わったと思ったら、今一番大事な最優先事項は荒川水害対策である「入間川流域緊急治水対策プロジェクト」であり、利根川・江戸川流域対策は後回しになっているのが現状です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

講師より最後に、「個々人が、水害危機対策として、ハザードマップによる避難所・高所への移動ルートの確認や、マイタイムラインの作成等を真剣に考えて頂きたい。土手のない川の近くに住居がある場合は、梯子を事前準備しておくのも一考であるように自らの環境に応じた対策が重要」とのアドバイスで締めくくって頂きました。

天狗岩放水路、利根運河、韮川放水路、眺望の丘、首都圏外郭放水路の調圧水槽(別称“地下神殿”)等たくさんの写真、地図を駆使してのお話は、非常に分かり易く、「利根川の東遷」の歴史的背景から、現在まで続く水災害リスクを再認識させられました。異常気象による水害リスクが高まる中で、ご講演の依頼が届いていらっしゃるのも納得の講演でした。有意義なお時間を當麻講師に感謝申し上げます。

なお、当日は、前述の髙橋様を含めて同期7名が受講頂き、當麻様が同期の中で如何に慕われているかを実感しましたことも付言させて頂きます。

 

次回のマナビ塾は 9月17日(火) 13:30から喜楽会室にて、森岡文明氏(「大江戸だより」編集長)を講師として「自然災害への備え~防災意識を鋭敏化させよう!! (特に大地震対策を中心に)」のテーマで開催いたします。

ここのところ様々な気候変動を実感するが多く、どのように身を守るか、沢山のお申込みをお待ちしております。

   【 マナビ塾世話役 栗原麗子 記 】

マナビ塾:8月29日(金)「江戸の食と安全を守った水運」について学びました。” に対して2件のコメントがあります。

  1. 菊池 健夫 より:

    薮ちゃん、先日はどうもありがとう。
    お陰様で新しい世界を知ることが出来て、楽しいひと時を過ごすことができました。
    またこうした機会があれば、よろしくお願いします。

  2. 薮内 滋 より:

    菊池さん

    早速HPを閲覧頂き有難うございました。「利根川の東遷」は、歴史的にも、地理的にも面白いテーマで勉強になりましたね。
    當麻さんを囲んで同期7名で終了後に懇親会が開催出来たのも良かったですね。
    また、マナビ塾で興味のあるテーマの時には気軽にご参加下さい。

    薮内

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です