マナビ塾:7月16日(火)「源頼朝の鎌倉幕府誕生秘話」を学びました。
R6年度の第2回マナビ塾は、7月16日(火)に千代田G会長で元鎌倉ガイド協会会員でもある中村烈氏を講師にお招きして、源頼朝が鎌倉幕府を作り上げるまでのとっておきのお話をお伺いいたしました。
なお、当日は、千代田Gの会員方の他に、中村氏がハイキング同好会の毎年の鎌倉散策でいつも興味深いお話をユーモアたっぷりにガイドして頂いていることから、ハイキング同好会のメンバーも多数お集まり頂いたこともあり、喜楽会室で開催したマナビ塾としては、過去最高の26名の方々に受講頂きました。
お話は、大きくは以下の4つから構成されていました。
(1)頼朝誕生から、源氏が破れ平家の世となった平治の乱(1159年)のあと、父の義朝が打たれるまで。
(2)頼朝が助命され、伊豆での流人生活を過ごした20年間
(3)以仁王(モチヒトオウ)の令旨から、頼朝が決起して、大軍を率いて鎌倉に入城するまで。
(4)頼朝の棟梁としての秀でた人物像と鎌倉幕府の成立について。
[1]頼朝の幼少期と流人の時代
頼朝の父の源義朝には9人の男の子がいて、頼朝は三男でしたが、正妻の長男ということで、源氏の嫡男と思われていました。ちなみに9番目の息子が、九郎判官義経とのこと。
母は尾張の熱田神宮の大宮司の娘の「由良御前」で、中級貴族の出身です。
頼朝は12歳で宮中で蔵人(くろうど)と呼ばれる秘書のような仕事をする一員でした。正妻の子だけに、お兄さんの義平よりも位は高かったのです。
平安時代にはいくつも「乱」と呼ばれる政治的混乱や戦いがありましたが、宮中の争いに武士が初めて大きく参画するのが、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱です。保元の乱では父の義朝が勝利側にありましたが、平治の乱では、源氏VS平家の戦いとなり、それに勝った平家は大いに繁栄し逆に敗れた源氏は衰退の時代に入ります。
頼朝は14歳から34歳の挙兵時まで実に20年余りを伊豆で過ごしています。流人ではありましたが、乳母の「比企尼」が絶えず食料や衣料品を送ってくれたので困ることはなかったとのこと。
その後、比企家は頼朝に重く用いられ、頼朝の長男である頼家の妻(正妻)は比企家の出身です。
頼朝は、自分の監視役の北条時政の娘「政子」と恋仲になり、30歳のころ結婚して二男二女に恵まれました。(嫡男の頼家は第2代将軍、次男実朝は3代将軍)
中村氏によれば、頼朝は流人にもかかわらず源氏の嫡流と言うブランド力のお陰で、「政子」だけでなく、その前の「八重姫」(後述)のように地方の豪族の娘にはとにかくもてたようだ(「キムタク」のように見えたのではないか)とのこと。
また、頼朝は1199年に満53歳で亡くなりますが、以下ア)~ウ)の「絶体絶命の危機」を迎えているが、そのたびに誰かに助けられており、「運の強さ」を感じざるを得ないとのこと。
ア)平治の乱の後、義朝の嫡男として首を切られるところ、平清盛の継母「池禅尼」の命乞いで救われ、伊豆に流された。
イ)伊豆の有力豪族の伊東祐親の娘「八重姫」と子を成したため、殺されるところを祐親の次男の「祐清」(妻が「比企尼」の娘)に助けられた。
ウ)「石橋山の戦い」(次項に記載)に敗れ、「ししどの窟(イワヤ)」という洞窟に隠れているところ、敵将の一人「梶原景時」にみつかったが、見逃してもらった。
[2]頼朝の決起から鎌倉幕府の成立
1180年4月に後白河法皇の皇子の以仁王が「平家を撃て」との「令旨」を全国に発布したことがキッカケとなりました。
頼朝は最初は平家打倒の決起に躊躇していたが、この「令旨」を受け取った源氏には平家から刺客が送られたとの情報が京から届き、それならばと北条氏,土肥氏と嘗て源氏と縁のあった豪族(三浦氏)に相談して決起に踏み切ったとのこと。
まず、豪族たちに評判の悪かった伊豆目代(モクダイ=平家の代官)の山木兼隆を最初のターゲットとして8月17日に襲撃して成功しますが、8月23日の「石橋山の戦い」では平家方(大庭景親)の大軍に破れ、真鶴港から房総半島の先端の「安房」に逃げることになります。
それから、房総半島の安西景益、千葉常胤、上総介広常等の豪族を味方につけて、東京湾をぐるりと逆時計周りに一巡りする間に、5万から10万の大軍となって四方の賊軍を平らげ、10月7日には鎌倉に入城しました。
今のカレンダーだと挙兵から52日目に鎌倉入城です。これってすごくないですか!!
「わずか数十人で旗揚げした頼朝がわずか2ヶ月足らずで数万の大軍で鎌倉に入城したことを、人は“奇跡”と呼ぶ」と中村氏は表現されました。
このように短時間の間に頼朝が関東の豪族に支持された理由として、中村氏が挙げられたのは、次の4点でした。
①関東の豪族は平家側の代官(目代)の支配に苦しんでいたこと。
②元々坂東の豪族は源氏と縁があったが、源氏の嫡流である頼朝がその縁をフルに頼ったこと。
③山木兼隆の襲撃等のように戦う前の情報収集・分析力が優れていたこと。
④味方になった豪族の領地を認めたり、平家側の領地を没収して味方に配ったこと。
特に④は、次の「御恩と奉公」としてその後の鎌倉幕府の基本政策となったとのことです。
- 第1に御家人の領地を幕府が認め、保証する。
- 第2に「いざ鎌倉」となったら、将軍の下に結集し戦う。
- その戦いに勝利したら、その貢献度に応じて恩賞が与えられる。
最後に、中村氏より講義のまとめとして以下のお話がありました。
頼朝が豪族=武士が何を望んでいるかをよく理解していたからこそ、豪族たちは頼朝を信頼し、あの奇跡を起こすことが出来たと言える。
逆に鎌倉終期に元寇で戦い勝ったにもかかわらず、敵が蒙古であるがゆえに恩賞を与えられなくなったことが、鎌倉幕府の衰退に繋がったと言える。
スライドおよびレジメをご準備頂き、分かり易く、かつ面白いご講話をして頂いた中村講師に改めて感謝申し上げます。
次回のマナビ塾は8月29日(木)13時30分から喜楽会室にて、當間多才治氏を講師として「江戸の食と安全を守った水運」のテーマで開催します。歴史や地理に興味のある方には、特にお薦めです。たくさんのお申込みをお待ちしております。
【 マナビ塾世話役 続谷恵二 記 】
ご参加いただいたみなさま、特にハイキング同好会や千代田Gの方々、ありがとうございました!
中村講師の語りには、いままさに進行しているような気持ちになってしまい、ついつい引き込まれてしまいます。
リーダーとはいかにあるべきか、考えさせられました。
マナビ塾世話役(共同) 栗原麗子