マナビ塾:2月27日(金)太田道灌を改めて学びました。

咲き競っていた梅の花が縮こまるような冷え込んだ2月27日、喜楽会室には27名と多くの方々が集い熱気にあふれました。今年度9回目のマナビ塾です。

講師に新宿区立歴史博物館で”中世を解説するのが得意な野口ボランティア”と評されている野口洋子さん(池袋G)をお迎えして第一部は喜楽会室で、第二部は日比谷公園内にある千代田区立日比谷図書文化館に場所を移して、誰もが名前は知っているし聞いたことのある最初に江戸城を築いた武将「太田道灌」の足跡を辿りました。第二部では図書文化館の山田主任学芸員方のご協力を経た豪華陣容で太田道灌の開いた江戸・東京の歴史と文化を見て聞いて学んだ一日でした。

(1)道灌びいきとなったきっかけは?

野口さんが太田道灌に興味を持ったきっかけは、定年後に始めた新宿区立歴史博物館の展示解説ボランティアをしていて、“中世の年表”に「長禄元年(1457年)  “ 太田道灌”江戸城を築く」と「文明18年(1486年) “ 太田道灌”主君の扇谷(おおぎがやつ)上杉定正に殺される」の二行だそうです。

家康が江戸入府する130年以上も前に江戸城を築き、武将として大活躍しながら、主君に欺かれて命を落とした太田道灌とは一体何者なのか、博物館来場者に質問された時の準備の側面もありましたが、自分自身が何よりも興味を持ったそうです。

そのような中で、縁あって道灌の18代子孫にあたる太田資暁(すけあき)氏が代表を務める「道灌びいきの会」に入会されたそうです。入会から10年間、毎月、会員の中世史・郷土史の専門家や史跡ガイドをされている方々などと一緒に各地の道灌ゆかりの史跡や伝承地を訪ねたり、関係する古文献を学んだりを続けていらっしゃるとのことでした。

(2)道潅の生涯について

最初に道灌の生涯について時代背景とともに以下のような説明がありました。

・太田道灌(1432~1486年)は、室町時代後期に、関東地方で活躍した武将で、武蔵の守護代・扇谷上杉家の家宰(=筆頭家老)。少年時代から軍学・和歌・漢詩の才に優れ、長じてのち資長と名乗り家督を継ぐと、26才で江戸城を築き、2~3千人の兵を動かす城主となり、40~43才の間に出家、法名を道灌と名乗ったとされている。

・道灌の生きた室町時代は関東の統治機関として鎌倉府がおかれ、その長官である鎌倉公方(くぼう)と長官を補佐する関東管領(かんれい)が京都の足利幕府との窓口になっていた時代で、公方方と管領方との対立が昂じて戦国時代の幕開けとなった時代であった。

・太田家は関東管領の上杉氏の一族である扇谷上杉家の家臣団の長であった。

・道灌は居城の川越城と鎌倉の中間にあって、内陸と海を結ぶ川もあって交通が便利な江戸重長の子孫の館をみつけ、そこに江戸城を築いた。

・江戸城を築いてから、武蔵国の有力武将であった豊島氏を「江古田原・沼袋の戦い」で破り、さらに石神井城へ追い詰めて滅ぼす等の武功をあげた。

・ところが、道灌の活躍を妬む者が「道灌は謀反をたくらんでいる」との噂を流し、その噂を信じた主君の上杉定正が屋敷に招いた時に誅殺されてしまった。享年55歳。

このような悲劇の武将であるが故に今も愛され、後述の通り関東のあちこちに道灌の名前を冠した地名や史跡が数多く残っているのではないでしょうかとのことでした。

なお、野口さんより東京都の小学校社会科の副読本のページ「太田道灌と江戸城」についてを見せていただきましたが、「それにしても凄くありませんか。現在の小学校では太田道灌についてこれ程学んでいるのですよ」とのコメントがありました。

確かに、太田道灌=江戸城を作った人くらいの認識しかなかった私たちには、道灌がこれほど見直されていることに大きな驚きを覚えました。

(3)「山吹の里」伝説について

次に有名な「山吹の里」伝説について説明がありました。

・逸話は、ー ①道灌が鷹狩の最中に雨に降られ、近くの農家に蓑を借りようとしたところ、その家の娘が黙って山吹一輪を差し出され、道灌が腹を立てる。②しかし、家来から「後拾遺和歌集」の「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞかなしき」の和歌になぞらえて、「蓑(=実の)ひとつない」を奥ゆかしく表現したのではないかと言われる。③道灌は教養のなさを恥じて、和歌を勉強するようになった。 ーと言う内容。

・道灌に関する逸話は、江戸期に作られたものが多く、真偽は定かではないものの、中でも逸話集「常山紀談」の「山吹伝説」の話は、昭和の終戦前まで高等科教科書にも取り上げられ、また落語「道灌」として、5代目柳家小さんの得意演目にもなっている。

・「山吹の里」伝説の地は、都内や周辺に史跡として複数残されている。有名なところでは、豊島区高田、荒川区三河島、埼玉県越生(おごせ)町、横浜市金沢区等にある。特に荒川区は、日暮里駅前に「山吹の花一枝」の像として娘の像を設置している。

なお、野口さんからは、「実は、七重・八重の山吹には実がならない、実がなるのは一重の山吹だけ」との面白い情報提供もありました。

(4)道灌の銅像とゆかりの地の所在地について

次に道灌の銅像ゆかりの地についての情報提供がありました。

・道潅の銅像は、東京とその周辺に12体ある。有名なのは、東京国際フォーラム(有楽町駅から1分)のガラス棟一階にある道灌像で、腰に太刀、手に弓を持った堂々たる姿をしている。昭和33年にこの地にあった旧都庁に設置されたもので、都庁の新宿移転後、平成8年にゆかりの地に復帰した。この他にも日暮里駅前には馬上姿の道灌像が、新宿中央公園には山吹伝説の道灌と乙女の像が立っている。

・史跡と伝承の地は、関八州全体に200余ケ所に及ぶ。荒川区西日暮里駅北西部の高台で元砦跡の「道灌山」がその筆頭で、道灌通り・道灌橋・道灌堀等々がある。

・さらに有縁の社寺は首都圏に100余ケ所ある。赤坂見附駅から徒歩8分の「日枝神社」は、道灌が江戸城内に祀ったもの。同様にJR市ヶ谷駅から徒歩3分の「市ヶ谷亀岡八幡宮」も道灌が鎌倉の「鶴岡八幡宮」から勧請したものである。

・道灌は、江戸城内に、さまざまな宗派の社寺を勧請している。社寺勧請の多くは江戸城鎮護・戦勝祈願そして領民統治等政策的なものでもあるが、門前に楽市をつくり、経済の活性化も図っている。

(5)鎌倉の道灌ゆかりの寺

次に鎌倉にある道灌ゆかりの寺についても説明がありました。

・鎌倉唯一の尼寺「英勝寺」は、太田道灌の屋敷跡にある。道灌から五代目の太田重正の妹で家康の側室でもあったお勝(=英勝院)が創建した寺で、裏山には道灌のお墓も残されている。甥の太田家の系統が現代まで連綿と続いている。

(6)道灌ゆかりの銘菓・名酒について

最後に道灌と関係のある銘菓・名酒についても紹介がありました。

①新宿の「追分団子本舗」の追分団子の元は道灌団子(栞に記載あり、道灌が地元民から差し出された団子を気に入ったのが始まり)

②川越市の「川越菓舗道灌」の道灌まんじゅう(川越城本丸御殿の前にある老舗和菓子店)

③伊勢原市の「御菓子司 新店」の道灌まんじゅう(太田道灌墓(洞昌院)近くにある老舗和菓子店)

④滋賀県草津市の太田酒造の「道灌」(道灌を祖先に持つ太田家が廃藩置県後に始めた酒造メーカー)

 なお、野口さんとしては、道灌の菩提寺の大慈寺(首塚)や洞昌院(胴塚)がある伊勢原市が、毎年10月に開催している「伊勢原観光道灌まつり」があって華やかでお薦めとのことでした。

以上、あっという間の一時間、野口講師の明瞭な語り口に引き込まれながら、太田道灌の足跡を、時に荒川区のパンフレット「太田道灌と荒川区」や千代田区の同「ちよだ歴史散歩MAP」を使って楽しく辿りながらの第一部は終了。

第二部は千代田区立日比谷図書文化館に場所を移して、一階の常設展示室で改めて千代田区の地形や江戸・東京の歴史と文化を振り返りつつ、太田道灌の残された功績の数々について思いをはせたのでした。

千代田区立日比谷図書文化館山田主任学芸員と館員の皆さまにはご丁寧な温かい解説とご配慮をいただき心から感謝申し上げる次第です。

また太田道灌の魅力を歴史的背景とともに力強く語ってくださいました野口洋子講師には、10年の「道灌びいきの会」会員としての活動に賞賛申し上げるとともに、知られざる歴史の一端を覗かせていただきましたことに厚く御礼申し上げます。

 

次回は 3月27日(金) 13:30~松崎健二講師にお迎えして「日本生命日比谷ビルの魅力~建築史にのこるこだわり」をテーマに開講いたします。築62年、日比谷ビルには知られざる技があり。どうぞ皆さま奮ってご参加、お申込みをお待ちしております。

【 マナビ塾世話役   栗原  麗子  記 】

 

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マナビ塾:2月27日(金)太田道灌を改めて学びました。” に対して1件のコメントがあります。

  1. 成澤節子 より:

    太田道灌の学びは塾 素晴らしい時間でした 野口講師 ならびに 企画下さった 学び塾 運営の方々に 感謝です       

    ありがとうございました

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