マナビ塾:3月27日(金)日生日比谷ビルの魅力について学びました。
桜前線が東京をピンクに染め始めた3月27日、喜楽会室には24名の受講者が集い今年度最後のマナビ塾が開かれました。

掉尾を飾っていただいた講師は現在不動産鑑定士・宅地建物取引士としてご活躍の松崎健二氏。松崎講師は喜楽会東京都支部の”日常生活の不動産相談” 顧問として私たちをサポートしてくださっておりますが、今回のマナビ塾ではその豊富な不動産部門での経験をもとに、創業70周年記念事業として建設されて優に60年を超える「日本生命日比谷ビル(日生劇場)」の建設時の秘話やビルの持つ魅力について様々な写真や外壁に使われた“万成石(まんなりいし)”などとともに語っていただきました。
(1)日比谷の歴史

太田道灌の江戸城を築城した頃は、城の横まで日比谷入江がありその横に江戸前島が今の日本橋から新橋駅近くまで突き出していた。その後、家康が入江を埋め立てたが、日生日比谷ビルの立地は江戸城ので堀割の位置にある。よって、日比谷は地盤が弱く、海抜も日生の前は約2mしかない。(銀座4丁目は約4.1m)
明治になって日比谷の大名屋敷跡に東京のお伊勢様と言われた「日比谷大神宮」が建てられ、日比谷公園も造られたが、大正12年(1923年)の関東大震災で被災した「日比谷大神宮」は飯田橋に移転し「東京大神宮」になった。

現在の日生日比谷ビルの敷地には、明治45年(1912年)に建てられた「愛国生命」の本社ビルがあったが、同社は昭和20年(1945年)に日本生命に包括移転されて日本生命の所有ビルになった。
ちなみに、日本生命の東京総局は、日本橋に昭和8年(1933年)に建てられた「東京日本生命館」(現在の日本橋高島屋)の6・7階にあった。(その他の階は全て高島屋に賃貸、現在は、増築部分も含めて高島屋所有となっている)
(2)日本生命「日比谷ビル」の竣工経緯

日本生命百年史によると経済白書が「もはや戦後ではない」と締めくくった昭和31年から2年後の昭和33年(1958年)6月、常勤役員会において創業70周年記念事業として日本の芸術・文化発展の一助とすべく東京に劇場を包括した日生「日比谷ビル」の構想が決定されたとある。
その後、後述の村野藤吾氏を設計者に迎えて、昭和34年(1959年)7月に着工、昭和38年(1963年)8月竣工、そして同年9月16日竣工式が行われている。
今では珍しくないが、ビルの約半分が劇場と言うのは、当時としては画期的な建物であった。また、職人の手仕事が詰め込まれた曲線の美しい幻想的な劇場と、外装は全て「万成石」(花崗岩の中でも「桜御影」と呼ばれる銘石)を使用し、一階をピロティとして開放したこと等が評価されて「日本建築学会賞作品賞」を受賞している。
⇒講師より「私は昭和44年の入社と同時にこのビルの7F不動産課に勤務したのですよ」とのお話がでると、受講者からも「私も契約者奉仕部の窓口に勤務していました」との思い出話が飛び出して来ました。東京総局時代を知る皆さんにとっても愛着のあるビルなのですね。
(3)「日比谷ビル」に対する弘世現社長(当時)の強い思い

昭和38年10月の日生劇場のこけら落としにはベルリン・ドイツ・オペラを招聘し、翌年昭和39年からは「創業75ニッセイ周年記念」として「ニッセイ名作劇場」を始めるなど、東京での文化発展への拠点として始動を始めたが、「日比谷ビル」に対する弘世社長の並々ならぬ強い思いを3点の記事から紹介させて頂く。
①日本生命百年史の中の弘世現氏の「私の生命保険昭和史」の記事より
・このビルを単に営業の砦だけでなく人々の心に少しでも潤いと憩いを与え、ひいては将来の文化の発展に一灯をともすことができればと思い、日生劇場を設けることにした。
・いいものを見た時の感激はその人の一生を支配すると私は思う。いいもの、丁寧に仕上げたもの見ると、人間は“大切に生きよう〝まわりの人を大切にしよう“と思うものだ。
・いいものをつくれば、いいものが入ってくる。そう考えてビル自体をユニークなものにし、劇場について当代最高のものにしたかった。
②「日生劇場の五十年」に掲載された弘世現氏の「日生劇場30年」と題した寄稿文(1994年5月)より
・日比谷ビルが日本生命のモニュメントとして永く残って欲しいという思いは強く、落成の無事を願って1961年の6月のある深夜、滋賀県の多賀神社で、日本舞踊界の名手、“武原はんさん”による舞を奉納しました。“はんさん”は緋の袴に永絹をつけ、私も衣冠束帯に身を固めました。神域は暗闇に包まれ、琴の音以外物音一つしない境内で粛々と舞われたのが瞼に焼き付いています。
③第46回国会衆議院の大蔵委員会議事録(昭和39年6月12日)より
[春日一幸議員(後の民社党委員長)の「日生劇場など数十億の膨大な資金が使われているが、余剰な資金があったら料率を安くするとかいろいろな実施のしかたがあると思うが。」の質問に対する参考人としての回答]
・劇場を造ったということは、何も上級ばかりを狙っているのではなく、健全かつできるだけ程度の高いものをなるたけ多くの人にみていただきたい、青少年のために将来役にたつもの、若い人たちのために何か使ってほしいというつもりでやったわけです。
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⇒講師がスクリーンに映し出された岡山県の矢坂山にある万成石の砕石場や建築現場をわざわざ訪れた弘世社長のレアな写真からも「日比谷ビル」への並々ならぬ思いを感じ取ることが出来ました。
(4)建築家村野藤吾とは

次に日比谷ビルの設計者として前述の弘世社長の強い思いを受け止めた村野藤吾という建築家についても紹介させていただく。
村野は「99%を聞き、1%に託す」という設計ポリシーを持っており、「99%は施主の言うことを聞かなければいけない。ただそれでも、1%ぐらいは自分が建築に残っていく。どんなに詰めてみたところが、村野に頼んだ以上は必ず村野が残る。村野の作品というのはそこから始まる」と言っている。
ヨーロッパの過去の建築様式を復古的に用いた“歴史主義(様式主義)”と装飾を省き実用性を重視した建築様式の“モダニズム”にとらわれず、それらを包括・精華させた独創的美と機能性を創出した“折衷主義”と言える。当時から“東の丹下(健三)、西の村野”と称されていた建築家だが、ディテールに対する執着では最後の建築家とも言える。
(4)「日比谷ビル」の見どころ
村野の素晴らしさとして「日比谷ビル」の見どころを挙げさせていただく。
①ビル全体の概要としては、装飾的な窓が整然と並んだビルはピロティで浮き上がり、屋上には、やや隙間を開けて屋根の庇が出ている。街の中のビルでは見たことのない端正なまとまりを持った建築だが、昼を過ぎると、西側の壁面に陽が周り始め、壁面の微妙な凹凸、窓周りの装飾的な細部が浮き上がる。

②1階はピロティを使って街に開放している姿を見せるが、コーナーの柱は丸く太く、重量感のあるビルを支えている安心感がある。
③ピロティの上部の波打つ軒線は、固い石を柔らかく見せる村野の卓越した技。現在では、曲面を叩き出せる石工職人はもういないのではないかと思われる。
④劇場のロビーの天井は安価なアルミ製なのだが、豪華な空間を演出している。

⑤支柱のない劇場内の螺旋階段の美しさは「階段の魔術師」と言われた村野藤吾を余すところなく見せている。
⑥劇場の天井全体が2万枚のアコヤ貝を埋め込んだ石膏ボードで出来ており、幻想的な雰囲気を醸している。
⑦村野自身のデザインによる劇場備品~バタフライチェアー・ゴミ箱・大理石カウンター・ドアの押手等々~も味わい深い。
(5)「日比谷ビル」を彩る芸術家
見どころとして「日比谷ビル」を彩る芸術家の作品も紹介しておきたい。

①劇場1階の正面のガラスモザイクは、ガラス工芸家岩田藤七の作。
②劇場1階ピロティの床のモザイクアートは、デザインが矢橋六郎で製作がフレスコ画家の長谷川路可

③劇場舞台の緞帳は杉山寧画伯の絵を京都の川島織物で織ったもの。

④劇場2階ロビーのブロンズ像は佐藤忠良の作。娘の佐藤オリエがモデルと言われている。
⑤地下レストラン「アクトレス」の壁画はアルミ紙を施した銀地襖紙にポスターカラーで色鮮やかに抽象的な花・鳥・果物等が描かれ琳派の襖を連想させるもので、上野・リチ・リックスというウイーン出身の女性デザイナーの作品(現在は京都市立芸術大学に収蔵)。
(6)日比谷ビル「7つのはてな?」
日比谷ビルを色々と調査していて思った「はてな?」についてふれておきたいと思う。
問1:日比谷ビルの建物は何階建て? (7階建て?・8階建て?・10階建て?)
答え:登記簿上は地下5階・地上10階 となっている。外観上、窓は7層なので7階建てに見えるが、エレベーターの階数は8階。ただ登記簿上は何故10階建てなのか登記図面や建物断面図を調べてもよく解らない。なお、地下5階にビル独自の空調機器を持っている。地下4階には美術品保管庫もある。
問2:竣工当時あった劇場入り口外壁モニュメントが今はない。何処に行ったの?
答え:モニュメントは上方を照らすサーチライト機能もあったため法的規制の対象となり、昭和50年に外され、現在は兵庫県加東市の東急グランドオークゴルフクラブ駐車場内に移設されている。
問3:竣工当時に設置されていた劇場2階ロビーの彫刻群は何処へ行ったの?
答え:彫刻群は美術品として全て日生が引き上げて倉庫に保管している。
問4:華やかな劇場ロビーに何故「憂鬱」と題された彫刻家ZADKINE(ザッキン)の像が置かれたの?
答え:劇場の外と内のそれぞれの世界を遮断することを狙ったのではないか。
問5:建築に際して何故公募方式によらず村野藤吾に特命依頼したの?
答え:施主と建築家の思いの一致ではないか。
問6:劇場部分の南面の窓は全て塞がれているが、一か所だけ開いているのは何故?
答え:塞いだのは、帝国ホテルを見下ろさないように配慮したらしい。
問7:1階角の柱石に「定礎1962年」と彫られているのは何故?(竣工は1963年なのに)
答え:1年の違いはその間に劇場やビル内装を行っており、全て竣工したのが1963年(昭和38年)になったため。なお、竣工式は盛大で、高松宮殿下・妃殿下、秩父宮妃殿下、五島昇東急社長、多くの文化人等々大勢の方々が写る写真が残されている。
(7)最後に
日比谷・内幸町周辺は、今後、日比谷公園の対面に高層ビル群が建ち並ぶ構想があるが、日生「日比谷ビル」は、弘世社長の熱い思いと、建築家の村野藤吾の独創的な建築意匠が融合し、昇華した、再現不可能で歴史に残る名建築であり、日本生命が世界に誇るべき建築レガシーとしてこれからも永く存続して欲しいと願っている。
以上、いつも60分経過した頃に設ける休憩を忘れたのは、松崎講師のご用意いただいたパワーポイントで映し出される興味深く貴重な資料や写真に惹きこまれたせいだったように思われます。
今まで我々が喜楽会室の入居ビルとして何気なく利用していた日生「日比谷ビル」の見方が明らかに変わり、誇らしい建物であることを認識させていただいたことに改めて感謝申し上げます。
また、今回ご持参いただいたパワーポイント用のスクリーン及びビデオプロジェクターの置台を喜楽会にご寄付いただくとのお申出にも深く感謝申し上げます。
今回で2025年度マナビ塾全10回を無事に終了いたしました。毎々多くの方にご参加いただき誠にありがとうございました。2026年度は6月30日(火)より新年度企画で開講してまいります。
どうぞ皆さまお楽しみに! またお目にかかる日を心待ちにいたしております。
【 マナビ塾世話役 栗原麗子 記 】
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